JA1AO(森OM) JA1KK(武井OM) 対談記録

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日時 :2011年1月10日午後3時
場所 :西荻窪「こけし屋」
参加者:JA1AO / JA1KK / JF1MZA / JM1KLO

(【AO】JA1AO 写真左側、 【KK】JA1KK 写真右側)

【KK】森さん、本当にお久しぶりですね。お会いするまで当時の面影を思い出せませんでしたが、お会いして、すぐに森さんだと判りました。お元気そうですね。今も現役でお仕事をされているとか。

【AO】現在は、吉祥寺の事務所で仕事をしています。私の専門は化学系で、一貫して環境関係の仕事をしています。昭和28年に就職して、当初は鉱山関係の計測器、その後は大気環境の測定器の開発をしていました。全国に普及した光化学オキシダント測定器は私の開発したものです。その関係で、大気環境学会にも所属しており、その学会は、最近創立50年を迎えました。

【KK】確か、森さんは、私よりも年上だと思いますが。

【AO】昭和4年生まれで、81歳です。

【KK】私より2つ年上ですか、お若いですねぇ。

【AO】終戦前、学徒動員で立川の飛行機のエンジン工場で働きました。化学屋でしたが、ヤスリ掛けや旋盤作業が出来る様になりましたよ。

【KK】私の学生当時の先輩に作間さん(JA1BC)がいらっしゃいますが、作間さんと私の年代の間に旧制から新制への切り替わり時期が有ったと思います。私には学徒動員の経験はありません。随分時間が経ちましたが、私たちが開局してから、もう50年以上になりますね。

【AO】昭和27年に従事者免許をとりましたが、当時はまだ進駐軍がいて、なかなか局免が下りず、よくGHQに陳情にいったものです。とりあえずJARLでSWLナンバーをもらい、菅田さん(後のJA1AP)、木賀さん(後のJA1AR)たちと、いつでも開局出来る様に、準備をしていました。当時は、進駐軍が14MHzのど真ん中でKAのプリフィックスで軍用の600Wのリグを使ってQRVしているのを聴き、羨ましい限りでした。漸く局免が下りて、一級局は最大500Wでしたが、私はA1=45W、A3=12Wで開局しました。

【KK】私は開局当時10Wでした。当時は蛍光灯もなく電球でしたから、今と違ってノイズも少なくてアンテナがよければ十分楽しめましたね。
 ところで、どんなきっかけで武蔵野クラブを作ることになったのですか?

【AO】それは、JA1PK阿部さんが中心になって準備を進めて設立したのですよ。だから正直言って設立の経緯については詳しくはないのです(HI!)。JARLのクラブという事で対外的な代表者を立てる必要があり、私が、コールサイン順で筆頭だからという理由で、会長になったということです。武蔵野クラブ設立時はコマーシャルが忙しくなってきて、しかも14MHzにしかQRVしていませんでしたので、武蔵野クラブのメンバーとのQSOも少なかったですね。

【KK】そうですね。私は3.5/7/50MHzでしたから、森さんとお空でQSOすることは出来ませんでした。今でもお仕事が忙しいそうですが、当時もお仕事で大変だったのですね。

【AO】仕事では、海外のいろいろな所に行きました。米国、マケドニア、中国、フィリピン、インドネシアなど、JAICA関係の仕事でよく海外に行きました。当時は、7MHzが、7050、7087.5のスポット運用でしたから、カリフォルニアにいたときも、スポット周波数のJAの信号が、AM波のビートによる大QRM状態になり、「ウヮンウヮン」という風に聞えていたことを覚えています。米国内のハムの電波は聞えずバンド内が静かなのに、海を隔てた遠くのJAの電波だけが、スポットで「ウヮンウヮン」と聞えている、という奇妙な事がよくありましたね。
 マケドニア勤務の時は、当地で開局を試みましたが、コソボ紛争が起こってしまい、開局どころか、東京から撤退命令が出て、陸路で国境を越えてマケドニアを脱出しました。
 中国では、開局自体は無理でしたが、短波ラジオでRADIO JAPANをよく聞いていました。天安門事件が発生した時は、情報が全く無くなり、短波ラジオが唯一の情報収集ツールとなりました。RADIO JAPANの情報を仲間内に流したら、公安にラジオを没収されそうになりましたが、死守しましたよ。
 フィリピンでは、環境関係の仕事をしていましたが、ここでも免許はもらえませんでした。
 仕事が多忙になってきたのに加えて、その後のSSB化で自作が難しくなったこともあって、徐々にQRT気味になっていきましたね。

【KK】私たちが開局した当初は、今とは違い全て自作でしたからね。

【AO】そうですね。当時は、ハム以外でも何をするにも自作でしたが、貧乏人は「HF」、金持ちは「AUDIO」という感じでしたよね!

【KK】ということは、私たちは「貧乏」グループだったということですね(HI!)。

【AO】送信機の真空管は、JRCの2E22でサプレッサー(Sp)変調でAMを出すのに便利でした。菅田さん(JA1AP)には、真空管を分けてもらったりしていました。送信用真空管のトランスは1kV以上の電圧が必要で、これも大変でしたね。
 その後、ハムの方はQRT気味になりましたが、今まで、ずっとワッチは続けてきたのですよ。例えば、HFの航空無線は、コンディションによって6MHz、9MHz、13MHz、17MHzを使い分けるのですが、どの周波数を使って、次にどの周波数に切り替えているかを聞くことによって、コンディションの変化が分かるので、面白かったです。
 それから、短波ラジオにSONY製のループアンテナをつないで、14MHzをワッチしたりします。このループアンテナは受信専用ですが、小さく収納出来て携帯に便利な優れモノで、QRMをヌル点にあわせると見事に信号が浮かんできます。これで海外にいるときでも、強力な地元局の裏で弱く入感しているRADIO JAPANを受信することも出来ました。
 また、これもハムとは違いますが、'85年のつくば万博開催期間限定で開局したAM放送局では面白い経験をしました。送信アンテナが太平洋に面した所に設置されたこともあり、土地の塩分が多く、理想的な接地が取れていたのでしょう。小電力でしたが、世界中から受信報告書が来て海外へも多くのべリカードが発行されたのです。

【KK】QRVはされていなくても、現在に至るまで無線を楽しまれてきたとのお話しを聞いて、嬉しく思います。ところで、森さんのお宅の前を通ってもアンテナは見えませんが。

【AO】それは、釣竿アンテナを、使う時だけ出すからだと思います。実は、私は釣りが大好きで、全国的な磯釣りの会の関東支部長を務めたことがあります。

【KK】そうですか。では、ご自宅のアンテナでQRVできるのですよね? 430MHzには出られますか?

【AO】はい。出られますよ。

【KK】それはよかったです。毎週日曜日の朝8時から、432.72MHzのFMで、武蔵野クラブのオン・エア・ミーティングをやっていますので、ワッチしてみてください。よろしければ、チェックインしてみてくださいね。久しぶりに、懐かしいお話しが出来てよかったです。これからもよろしくお願いします。本日は、有難うございました。


文責/写真:JM1KLO


作成:2011年02月09日01:27